-
- 株式会社ひばりプロダクション 代表取締役 加藤和也
- 美空ひばりは基本的にはシンガーソングライターではありませんので、作
詞作曲の先生との出会いが歌手としての運命を左右する重要な要素でした。
母が中学生の時、少女から大人になっていく過程で歌手としても大きな山
場を迎えた転換期に奇跡的な人との出会いがありました。
- それは米山正夫先生との出会いです。
- 1952年の4月からラジオ東京初の連続放送劇、今でいうラジオドラマ
「リンゴ園の少女」に美空ひばりの出演が決まり、そのドラマの主題歌に
なったのが米山先生の作曲された「リンゴ追分」でした。
- このリンゴ追分は戦後最大のヒットとなり、後の母のオンステージでは絶
対に欠かす事の出来ない代表曲になりました。そして、翌年の1953年
には「津軽のふるさと」「馬っ子先生」、その後もそれがご縁で東映時代
劇を中心に活動をした青年期にも「ロカビリー剣法」などの時代劇の挿入
歌としては極めて斬新な楽曲を米山先生に提供して頂き、その相乗効果で
ひばり人気にますます拍車をかけることとなったのです。
- 誰でも自分と青春を共にした音楽と言うのは一生忘れえぬものだと思いま
すが、三世代も越えて次の時代に継承される楽曲と言うと、それは大変難
しいと思います。しかし、米山先生の楽曲の恐ろしい所は、ベースになっ
ている音楽が昭和初期の世相に合ったものを提供されていると同時に、百
年後にその音を聞いた人が絶対に古いと思わない普遍の音階を生みだされ
たと言う事ではないでしょうか。
- 母が他界した後、ひばりトリビュートとなる企画を随分させて頂きました
が、数多くの現代の音楽を牽引する立場のアーティストが選んだ美空ひば
りの楽曲に、米山先生の作品が極めて多かったことにも納得が出来ます。
- 「日和下駄」はジャズでありロックにも聞こえ、「リンゴ追分」はファン
クの要素もたっぷりで、数多くのアーティストが国境を越えてカバーして
いるほどです。
- そういう意味でも数々の米山先生のオリジナル楽曲を歌わせて頂いた美空
ひばりと言う歌手の運の強さも、今日この日まで母が沢山の方達に支持し
て頂ける理由と同等の意義があるのではないかと思います。
- 米山正夫先生がお生まれになってもう百年と言う歳月が流れておりますが、
先生のお書きになられた数多くの音楽は今後もまだ生まれていないアーティ
ストと、その方達の音を聞く人達に新たな発見と刺激を与え続けて下さる
事でしょう。
ありがとう 米山先生 西郷 輝彦
米山正夫先生がみまかれて26年の歳月が流れました。僕自身はクラウンレコード第一号の新人だったわけですが、コロムビアレコードから移って来られた米山先生とお会いしたのはデビューした年の昭和39年。
次の年の1月1日、初荷レコード「青年おはら節」が発売されますが、年の暮れ、レコード大賞新人賞。紅白出場の合間をぬってレコーディングした慌ただしさだけを覚えています。
そして41年は、米山先生の曲が僕のレパートリーを塗りつぶしてゆきます「涙をありがとう」「西銀座五番街」「恋のGT」「花の百万拍子」「あの星と歩こう」「兄妹の星」そして「初恋によろしく」「恋人をさがそう」「この雨の中を」「潮風が吹きぬける町」40年から5年の間に何と20曲を書いていただいたのです。そのうちの12曲は作詞作曲。若年の頃に芝居の脚本を書かれていたという文学青年のイメージと、おはら節からロックまで、その音楽性の広さにただただ感動するばかりです。
温厚で、怒りのお顔など、まったく記憶にないほど、心お優しいおじさまでした。ただ、正直、あのゆったりされたたたづまいから、どこを押せば「恋のGT」が生まれ出るのか僕の生涯の問いです。歌手として駆け抜けた10年。米山先生のメロディーは、詩はファンの皆様の心に永遠に輝き続けることでしょう。
ありがとう…米山先生
天才・米山正夫 水前寺 清子
- 米山正夫先生ってすごい先生でした。
クラシック、ロック、ジャズ、演歌等々、どの先生にもまねの出来ない才能をお持ちでした。
♪コトコトコットン ゞ ファミレドシドレミファー♪、♪リンゴの花びらがー♪
♪これこれ石の地蔵さん♪、♪エ〜車屋さん♪、♪関東一円雨降るときは♪・・・
きりがないほどのヒット曲・・・
- 時代を超えた幅広いジャンル、シャレたリズム、その名曲の数々におどろくばかりです。
- もう一つ米山先生のすごい所があるんです。
歌のメロディーがほとんど1オクターブの音の中で作られていること。
何オクターブも使えば、いろんな作り方もあるでしょうが…なんたって1オクターブで…です。
- ぜひ今度、先生の曲を歌われる時、かみしめておためしを。
そんなすごい先生の曲を歌うことになりました。「いつでも君は」リズムはジェンカ。
なんたって「森の水車・コトコトコットン」「これこれ石の地蔵さん・花笠道中」ひばりさんのヒット曲がいっぱい。
- 今思えば大変失礼な話ですが、古い曲からの名曲の数々、米山正夫先生ってお亡くなりになってらっしゃると思っていたんです。(先生ゴメンナサイ)
- 「すごい先生なんだから、こわーい!かんじかナ?どういうふうに挨拶しよう!?」
ドキドキしながらレコーディング室で待っていた私の前に・・・(あれ?片手にカバン・片手首に雨傘をぶらさげ“よろしく〜”。普通のおじさん・・・私の頭の中・・・パニック)の出逢いだったのを思い出します。
先生!チータ若さゆえ!とおゆるしを。
- それからしばらくして、あの“マーチ”のレコーディングの日がやって来ました。
当時、ちょいとチータ忙しい時期で、レコーディングの時間にスタジオに行き、新曲の譜面を頂いての吹込みでした。
- スタジオの中から“ワンツー・ワンツー”のコーラスの声「どこの運動会の歌?」
「お前の新曲だよ」とディレクター。
(ウソー!演歌を歌ってきたのに“ワンツー”英語じゃないの。これは夢だ!悪夢だ!これでやっとデビューできた水前寺が終わるんだ!)でも夢じゃなくて現実!!
- 「絶対イヤダ!歌わない!帰る!」のくり返し。
- その時ディレクターの馬渕さん(演歌の竜と言われた名ディレクター)に
「とにかく1回だけ歌えよ」
と言われ、シブシブ歌ったら、録音室の向こうで、米山先生が両手で大きな○を作り“OK”「チータ最高」なんて言われちゃった。
どうせこの曲で終りになるのはわかってるけど、終わりになるなら自分の気持ちを入れて歌いたいと思い「もう1回やって下さい」と2回目、この2回目の歌がレコードになってますが、チータとしては最後の抵抗として歌ってるんです。
- ♪あなたのつけた足あとにゃ、きれいな花が咲くでしょう♪の所を演歌調で歌いました。
- 誰一人その部分を注意する人もなく…無視された…悲しさいっぱいでレコーディングが終了。
- あの日の悲しさとくやしさの気持ちは今でも覚えています。
- レコードが発売になって、皆さんが歌ってくださるようになり、なんと、昭和四十四年の春の選抜高校野球の入場行進曲になり、米山先生、星野先生と三人で甲子園の開会式へ行きました。
- グランドの奥の方から“三百六十五歩のマーチ”の曲が流れてきて高校球児達の行進を見て、自分の愚かさをイヤと言うほど知りました。
- そして現在もその時からずっと、作詞の職人、作曲の職人、ディレクターの職人、その職人の皆さんが道を作ってくださって、歌い手はその作って下さったレールを走る仕事なんだとと思っています。(イヤダイヤダと反抗した事をおゆるし下さい。
)
-
こうして書いていますと、いろんな思い出がうかんで来てどんどん時間がかかりそうなので、もし次に機会があったら、また書かせて頂きたいと思っています。
-
米山先生と最後にご一緒したのは、LPの作品に曲をつけて頂いた時ですね。
麹町の日本テレビの側にあるスタジオまで「曲調でイヤな所があったら直そうね」と大雪の中、来て下さってピアノの前に座られた時、びっくりしました。
先生はあの時、ご病気で目がかなり悪くなられて、五線紙の音符は一つ一つが大きく、その大きな音符を更に大きく見るために、ムシメガネで譜面を見ていらっしゃいました。
- 「大雪です。送って行きましょうか」「一人で大丈夫だよ。ゆっくり歩いて行くから」が先生との最後に交わした言葉になってしまいました。
-
米山先生!
- 星野先生は新しい詩が出来ると必ず「米山先生がいらしたらナー」が口ぐせでした。
-
私も、もう一度恩師お二人に歌を作って頂きたかったです。
-
これまでの素晴らしい作品を大切に大切に歌ってまいります。
チータ
美川 憲一
- 米山正夫先生はいつも明るく笑顔の方でした。歌唱を指導して頂く時など、つい緊張してしまう先生もいらっしゃいますが、米山先生はまったくそんなことが無く、会うとほっとする方でした。
唄い方も細かい指導はしないで、自由に歌い手の思った通りに歌わせてくれて、歌い手の個性を重んじてくださいました。
歌い終わると「あすこの歌い方が良かったよ〜」などと褒めてくださったりして、気持ちよく収録が行えたことを覚えています。
米山先生はステージでの本番を重視されていて「レコードは消耗品なんでね。聞いているうちに擦り切れてしまうのでこれぐらいの歌い方で良いです。力はステージにとっておいてください。」とおっしゃって、収録はすぐにOKが頂ける先生でした。
- 先生の曲はメロディーがとても覚えやすく、どの歌もとても歌いやすかったです。
「女の朝」などはアメリカ、ハワイでもヒットしたんですが、覚えやすいためか現地のお子さんなどまで口ずさんでいたりして。
♪朝が来たのね〜♪のあたり覚えやすくて歌いやすいですから。
でも♪夕べあんなに燃えたのに〜♪のところで親御さんに叱られたりしてて…。
その話をしたときに、米山先生もずいぶん笑って喜んでいらっしゃいました。
-
「裁き」「三面記事の女」のような難しい曲も多かったんですが、「みれん町」から曲想を変えて頂いて、また西沢爽先生独特の歌詞がぴったりマッチして「女の朝」のヒットに繋がりました。
「女の朝」を美空ひばりさんに聞いて頂いたとき「私もこんな歌が欲しかったのよ」と大変気に入って頂いて。ひばりさんも良い歌をたくさんお持ちですけど、でも嬉しかったですね。
残念ながらスタジオ外でのお付き合いはあまり無かったので、オフでの思い出話は持ってないですが、早くにお亡くなりになってしまったので、もっとお話しさせて頂きたかったと、いまさらながら思います。
先生から頂いた曲、これからもずっと大切に歌っていきたいと思います。
美川 憲一
もうひとりの恩師 〜米山正夫〜 美樹克彦
- 友人の誘いで一週間も沖縄に来て過ごし、何日かで頭の中が沖縄音階になってしまって“三線の花”や“涙そうそう”など口ずさんでいる私です。
- 出発前に米山先生への原稿をとのことで、連休も終わりの沖縄の空の下でこの原稿を書いています。
- 昭和41年にクラウンレコードからデビューした当時の恩師は“北原じゅん”先生でした。
あの頃は3ヶ月ローテーションでTVなどで唄う新曲が発売され、その曲がヒット曲となってゆき、谷間の月にもなにかしら曲が発売されて年に12枚〜15枚の新曲がリリースはあたり前のことで、10万枚以上の売り上げはヒット賞という形でレコードメーカーからゴールドディスクと賞状と金一封がもらえたと思います。
- 1年で10枚ほどのヒット賞をもらって順風満帆だった2年目に突然の試練の時が訪れました。
- 事務所とのトラブルなどで恩師“北原じゅん”先生の曲が書いてもらえなくなり、全てのTV番組やラジオ、コンサートなどのスケジュールが真白になってしまったことです。
歌手として一流でいるにはリズム曲のヒット曲とバラードのヒット曲を持ってこそ一流の証しと今も思っている私ですが、TVや舞台などで新曲が披露できない歌手として窮地に立ったその時に、新曲としていただいたのが、あの“花はおそかった”という名曲なんです。
- その年は初めての紅白歌合戦にも出場でき、私が現在芸能の世界で58年間も身を置くことができた運命の曲を書いていただいたのが米山正夫先生なのです。
- 23年前に“もしかしてパートU”という曲を書いて念願だった作曲家という道を歩き出した時に、作詞家としての恩師でもあり“花はおそかった”の作詞者でもある“星野哲郎”先生が、
「君は米山正夫先生を目指しなさいよ」
と言われたことがあります。
- 今思えばどんな時も新しいことにチャレンジする米山正夫先生の音楽家としての生き方をその時に教えられた気がします。
- 日本古来の伝統である、小唄、端唄、長唄などのモチーフが根底に流れているメロディーを取り入れた“車屋さん”や“関東春雨傘”民謡などを取り入れた“リンゴ追分”など数えあげてもあげられないほどの斬新なアイデアがあふれている曲の数々に驚くほかありません。
- 余談になりますが…米山先生が私にと書いていただいた“風そよぐアトランタ”という曲があります。
- レコーディングに呼ばれて唄った瞬間に…なんて綺麗なメロディー、なんて華麗なアレンジメントと思いつつ唄っていると、唄い終わった私に「この曲は美樹克彦の曲じゃないネ」と一言おっしゃってオクラ入りした曲があります。少しクラシックの香りもある曲だったと思います。
- 結局この世には出ないまま今日まで来ていることに残念でなりません。
- 今唄えばきっと米山先生もスタジオの向こうで両手を大きく上げて○〜マル〜のサインを出してくれそうな気がするんですが…。
- “花はおそかった”のレコーディングの時も2回しか唄っていないのに“マル”のサインを出していただいたことが昨日のことの様に思い出されます。
- まだまだ米山先生に追いつくことができない私ですが、作曲家としての道を一歩づつ歩いてゆきたいと思っています。
斬新さを忘れずに…
美樹克彦
米山正夫。たとえばメンデルスゾーン。 三鷹 淳
- 銀のスプーンをくわえて生まれてきたと云われるメンデルスゾーンを
米山先生にたとえたりしたら「おい三鷹やめて呉れよ」と先生に叱られ
そうですが、幼少時代の貧しさを売りものにする歌謡作家が多い中で、
東京原宿の生まれで、成蹊学園から東京音大へ進んだ育ちの良さはやはり
メンデルスゾーンです。
あの美空ひばりさん(お母さんも含めて)が、所属するコロムビアと
意見の食い違いが生じた時、困り果てたコロムビアの幹部は、米山先生に
電話を入れて「米さんひとつ、ひばりさんを説得して呉れませんか」と
相談をしたそうです。
- その役は、古賀先生でも、上原先生でもなく、あの寡黙の人、米山先生
だったのですね。
- 誰にでも好かれた先生のお人柄が今も偲ばれます。
先生が亡くなられたあとでも、初めてお会いする業界の先輩に「米山正夫
の弟子です」と自己紹介をすると、ほとんどの方が「米さんには世話に
なったよ」と云って親切にして頂く事ができました。
その中のお一人があの吉田正先生でしたが、吉田先生は分散和音を巧みに
使われる名人だとすると、我等の米山先生は、三連音符を自在に使った
神様だと思いますが、皆さんどう思われますでしょうか?
ちなみに私が「わかばちどり」と結婚した時の媒酌人は米山先生ご夫妻
でありました。
内弟子代表・東京富士大学客員教授・声楽家
三鷹淳
吉 幾三
- 中学校卒業とともに上京。下町にてアルバイトしながらの歌手の道…。
浅草にあった「米山正夫歌謡学園」へ、週1〜2回レッスン…。
米山先生の直接のレッスンは月に1度か2度でしたが、優しい言葉の中にも厳しい目を
していたことが今でも思い出されます。
- 東北人、特に津軽の言葉では「き」という発音の仕方に特に笑いながら、また怒られ
ながらレッスンしたのを覚えております。
- 『恋人は君ひとり』というデビュー曲にあたり、どうしても『恋人は“ち”みひとり』
と聞こえてしまうとの事でした。先生は笑いながら「面白い発音をするネ!」と
よく言われました。
- 又、デビューするにあたり「レコード会社のディレクターは私だと思い、言う事を聞くように!」と言われた事を今だ守っています。どんなに若いディレクターでも、
ベテランでもです。
先生は、お酒はほんの少し飲むと真っ赤になり、とても優しいジェントルマンでした。
いつも背広にネクタイ。何が入ってるか分かりませんが“黒のビジネスバック”を持って、
背筋をピンと張って歩いておられました。
いろいろと御心配もおかけした時もありましたが、直接に私に言う事は無かったと思います。
世界のヤンマーディーゼルとの長いお付き合いの中での私のデビューに、また大変お世話になりました。内弟子的な事はなかったですが、いつもクラウンレコードにて待ち合わせ、そして打合せと仕事に打ち込んでいる米山先生を見るたびに「必ずヒット出して先生をどっか旅にでも連れて行かなきゃ。」と思っておりましたが、残念でなりません…。
今ではただ先生の言われたとおり、歌手として、作曲・作詞家として、多くの友人、
又先輩方に可愛がられるような生き方に努めております。
先生!米山先生。本当にありがとうございました。
「りんご追分」を唄うたびに思い出します。もう少し生きていて欲しかったと…。
いっぱいヒット曲がある中で僕の中には「りんご追分」が先生を思い出す名曲です。
受け継いでいきます。
優しく、ご自分に厳しい物づくりの人の生き方を…
米山正夫歌謡学園卒業生
作詞・作曲・歌手
吉 幾三
クラウンレコード 元・制作本部長、ディレクター 長田幸治
米山先生は、音楽に関して深い知識を持っておられた事は申すまでもありませんが、
その他の分野についても幅広く随分難しい事を沢山ご存知で、まさに博覧強記の方
でした。
しかし、流行歌をお作りになる時は、理屈っぽい事はお嫌いでした。
若い新進の作詞家の詩をお渡しした時など「ちょっと力が入り過ぎてますね。もっと
遊びがないとね… こんなにぎゅうぎゅうに詰め込んではね…」などと言われたこと
があります。
先生はご自身作詞家としても一流で、歌曲のようなものもお好きでしたが、その一方
で、実に軽妙な佳作も残しておられます。
その一つとして私が好きな歌は美空ひばりさんの「車屋さん」です。仮に私がいま
担当ディレクターだったとして、一体誰に頼んだらあの歌を書いてもらえるのかを
考えてみても、思い当たる作家がいません。
ところで「車屋さん」の中に「歌の文句にあるじゃないか」というフレーズがあり
ますが、私がコロムビアレコードに入社した昭和30年ごろは、レコードを買うと
中に入っている歌詞カードの事を文句カードと呼んでいました。
勝手な想像ですが、米山先生には歌によって詩と文句とを区別するような気分が
おありだったかもしれません。そんな風に感じられないことも無いように思います。
たとえば「津軽のふるさと」は詩、「車屋さん」や「花笠道中」は文句といった
具合に。
米山先生の歌はどんな事をテーマにしても気品があって、決して下品にならない
格調の高さがあり、それでいて誰もが親しめるポピュラリティーがあったと思います。
生誕100年との事ですが、本当は100歳のお作品こそを聞かせて頂きたかった
と思います。
元クラウンレコード ディレクター 牛尾 眞造
- 性格は温厚、おだやか、もの静か、決して激昂しない、そして下戸で美食家、後世に残る数々の名曲を生んだ昭和の大作曲家、米山正夫先生はそんな印象の人でした。
- 私がコロムビアレコードに入社したのは、昭和三十七年二十二才、邦楽部に配属になり、新人ディレクターとしてスタートしました。その翌年新たにクラウンレコードが設立され移籍しました。先生は記念すべき専属作曲家第一号として迎えられ入社されました。
- そんなある日、先輩に先生をご紹介いただくことになり、お名前だけは存じ上げて
おりましたので、大いに緊張しておりました。
- 当時私は皆から、牛尾君とか牛尾とか牛(ギュウ)ちゃん…と呼ばれておりましたのに、
先生は「牛尾さん、米山正夫です。どうぞよろしくお願いします」と深々と頭を下げて
挨拶されました。当時先生は五十二才、すでに音楽業界で重鎮と呼ばれていた人なのに
何と謙虚なんだろうと感激致しました。
- あの昭和の歌姫美空ひばりが先生の新たなスタートを応援したいとの熱い思いが、
コロムビアの首脳を動かし専属制度の壁で不可能とされた、他社での吹込みを例外的に
実現させたのがクラウンの最初の第一号新譜CW1「関東春雨傘」でした。
如何に彼女が先生に対する恩を感じていたか、尊敬していたか、大切な人であったかが
解る逸話です。
- 以来、先生は八面六臂の大活躍をされ「三百六十五歩のマーチ」「花はおそかった」
「初恋によろしく」等々の大ヒットにより大きく会社に貢献され、今日のクラウンレコードの基礎を築かれたお一人と云っても過言ではありません。
- そして特筆すべきは、作詞に関してもすばらしい感性を持たれていたことです。
「山小舎の灯」「関東春雨傘」「車屋さん」などゝ。
私は先生がピアノに向かっている時のお姿を見ているのが好きでした。
姿勢正しく、美しい指使い、ソフトで正確なタッチ、そして先生の作風は格調高い歌謡曲
であったと思っています。
- 仕事を通じ長年親しくお付き合いをさせて頂き、今、私の五十年に及ぶ音楽業界を
振り返る時、米山正夫先生との出会いはすばらしい私の財産であると思っています。