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校内演奏会のプログラム(昭和8年7月15日)
昭和8年7月15日に東洋音楽学校講堂にて開催された校内演奏会のプログラム。
米山正夫は日本人作曲家の横田發名氏のピアノ独奏作品のほか、他奏者のピアノ伴奏も受け持ち、輝ける未来を夢見ていた頃であろう。
- この頃は、好んでベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」の第一楽章を演奏しており、技術力の高さがうかがえる。
- 本人談によると、かなりのアガリ症だったが、一度演奏直前に椅子から滑り落ちたことがあったらしい。
- 「その時はあがらずに大変上手く弾けたので、アガリ症を克服するにはこの手だよ。」と言っていたのを覚えている。
奏者としてあまり使いたい手ではないが、その時の演奏は是非聞いて(見て)みたかったものだ。
- オール日本新人紹介演奏会の5日後、4月26日には東洋音楽学校(現:東京)の卒業演奏会が行われた。
東洋音楽学校(現:東京)の卒業演奏会
東洋音楽学校(現:東京)の卒業演奏会
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こちらでは伴奏のほか、ピアノ独奏でファリャの「火の踊り」(現在では「火祭りの踊り」と訳されている)
などを弾いており、ベートーヴェン、シューベルトなどの演奏が多い中でひときわ異彩を放つ選曲となっている。米山正夫の作品の中にはファリャが好んで使ったフリギア旋法を用いた曲も多いが、この頃から模索を始めたのであろうか。今となっては解らないが、興味深いプログラムである。
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デビュー作「春の謳歌」
江戸川蘭子と米山正夫
昭和10年には作曲家としてのデビュー作「春の謳歌」(歌唱:江戸川蘭子)を発表。
米山正夫が好んだ「ひとひねり」が効いており、以降の作品に多くみられる閃きの走りを垣間見ることができる。
後期の米山正夫は忙しさのあまりかなりの乱筆だったが、この頃の作品は丁寧に書かれており、本質的な几帳面さが現われている。
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デビュー当時、若かりし頃
当時「我等のテナー」の愛称で親しまれた藤原義江氏の伴奏者として活動していた時期もあった。
自作品によく見られる、歌曲のような作風を磨きこんだ時期かもしれない。
伴奏者としての活動
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近江俊郎氏の家族と共に
近江俊郎氏と共に
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暗雲たちこめる敗戦の日本の空に、ひときわ明るく響いた「山小舎の灯」は、ラジオ歌謡・歌声喫茶などで大ヒットとなった。
今も歌い継がれるこの名曲は、写真の近江俊郎氏の透き通るような歌唱で皆の心に響いたことだろう。
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コロンビア時代
コロムビア時代の懇親旅行?の集合写真。米山正夫は最上段右側。(柱の前)
米山正夫から向かって左に、上原玄人氏、万城目正氏、藤浦洸氏。 ななめ左下には西条八十氏といったそうそうたる顔ぶれだ。
松島トモ子氏(少女時代)と共に。
松島トモ子氏(少女時代)と共に
どこかの旅館で上原玄人氏、原六朗氏と共に。
この頃の米山正夫はかなり太っており、持病となる糖尿病を育てたのもこの頃であろう。
飲酒はしないが、脂っこい料理に目が無かった。
上原玄人氏、原六朗氏と共に
愛弟子三鷹淳氏とともに
愛弟子三鷹淳氏と共に
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